2018年2月、JR北海道に東急電鉄の豪華観光列車「THE ROYAL EXPRESS(ザ・ロイヤル・エクスプレス)」が札幌~道東エリアを運行するという発表がありました。
実は昭和30年代に、その「東京急行電鉄」が札幌~江別間に新しい鉄道を敷設するという「札幌急行鉄道計画」があったのです。
この記事では、かつて北海道江別市で計画された「札幌急行鉄道」の新路線構想の詳細、ルート、なぜ計画は中止されたのかについてご紹介します。
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もくじ
「札幌急行鉄道」北海道江別市にかつて存在した新路線計画!札幌~江別を結ぶ夢の超特急構想
事の発端は1956年(昭和31年)春、当時44歳の道議会議員・大久保和男氏が発した「都市近郊電車構想」でした。
当時の江別市は舗装道路も、上下水道も、公民館も、なにもない「およそ”市らしくない市”(昭和31年5月4日付 北海道新聞)」と揶揄されていたといいます。
そんな江別の将来の発展を、急行電鉄の敷設に託そうと「(仮称)札幌急行鉄道調査促進委員会」が設置されます。
東急の五島慶太氏、来道
1957年(昭和32年)6月、新鉄道構想の協力要請など着々と進む中、東急の実質的創業者であり当時の東急会長であった五島慶太氏が北海道にやってきます。
東急の北海道進出が理由のひとつでしたが、来道当日、大久保和男氏から札幌急行鉄道の構想を聞かされ意気投合。
五島氏の口から「江別~札幌間の新鉄道敷設」が語られ、事態が大きく動くことになりました。
「札幌急行鉄道」計画の概要
東急の鉄道として現地調査する運びとなった「札幌急行鉄道」。
1957年7月に開かれた市議会の議員協議会にて、大久保和男氏が「敷設設計計画(案)」を説明しました。
さて、江別市に計画された札幌急行鉄道はどのようなルートで、どこに駅が作られる予定だったのでしょうか。
「えべつ昭和史」には計画された路線図と、文章による概要説明がありました。
※路線図はクリックで拡大表示可
<計画の概要>
本道の枢要なる石炭産出拠点、夕張より函館本線野幌に至る私鉄夕張線を上江別駅付近より函館本線を高架にて横断せしめ、国鉄江別駅に至り、これより江別市内横断、元江別を経て4番通り付近をこれに並行して走り、元野幌付近から西進し東米里を経て豊平川を渡橋、これより川沿いに雁来を経て苗穂に至り、国鉄線と交差したる後、豊平川に沿うて札幌市内に入ると共に、市内大通東端付近より地下路線によって都心である大通西4丁目地下駅に至る全長20.2km・・・・・(後略)
札幌の地下鉄が開業する15年も前の話である。出典:『えべつ昭和史(平成7年3月31日発行)』巻末10題 忘れえぬ人 忘れ難きこと 第9話 札幌急行鉄道の挫折 P.843-844 より
当時夕張から江別市内まで走っていた「夕張鉄道」と接続する計画だったようです。
夕張鉄道「上江別駅」から接続し、高架で国鉄(現JR)を渡って江別駅に入線。
その後はスイッチバックでしょうか、「元江別駅」「元野幌駅」を経て「東米里駅」「雁来駅」を経由。
現・苗穂駅の東側に「東苗穂駅」を設置し、その先で地下路線となり、終点の大通駅に至るというものでした。
「スピード」と「沿線開発」
計画によると、江別から大通りまで17分で到着するというものだったようです。
当時の国鉄で行くと、札幌まで38分というご時勢に、こちらは17分という夢の超特急である。無論、スピードを売り物に商売しようというものではない。眼目は、電鉄沿線に宅地開発や大学、遊園地などを誘致することにあった。それが五島の経営哲学であり、およそ市らしくない市と嘲われ、浮揚の機会を模索する、江別市の期待でもあった。
出典:『えべつ昭和史(平成7年3月31日発行)』巻末10題 忘れえぬ人 忘れ難きこと 第9話 札幌急行鉄道の挫折 P.844 より
その後、鉄道建設の認可がなかなか下りないこと以外は話がトントン拍子で進んでいましたが…、
五島氏の糖尿病が悪化、病状は好転せず、来道からわずか2年後の1959年(昭和34年)8月14日、私鉄王・五島慶太氏は帰らぬ人となってしまいました。
五島の死、伊豆鉄道の工事難航により札幌急行鉄道撤退
東急はこの札幌急行鉄道と並行して「伊豆鉄道」の建設も進めていました。
その伊豆鉄道はトンネル工事が難航し、工費が計画の倍近くに膨れ上がったこともあり、東急幹部の中でも札幌の計画は思いとどまるべきという声が挙がっていたといいます。
そこにきて五島慶太氏の死は大きすぎたのでしょう。
五島の死後、御曹司の昇社長が東急を牽引することになった。が、社内事情は、きわめて厳しいときであった。特に、先に触れた伊豆鉄道の膨大な出費が問題となった。事実、運輸審議会においても、東急は当面の伊豆鉄道の建設に主力を注いでおり、札幌までは手が回りかねるのではないかとの危惧の声も上がった。ため、8月下旬になっても以前認可にはならない。
その後、ほどなく認可はおりたが、東急本社の数次に亘る重役会議の大勢は、既に中止に傾いていた。伊豆急行の誤算から財政事情も逼迫しているので、この際、先行投資となる札幌を見送ろうというものだ。かくて札幌急行鉄道の夢は泡と消える。出典:『えべつ昭和史(平成7年3月31日発行)』巻末10題 忘れえぬ人 忘れ難きこと 第9話 札幌急行鉄道の挫折 P.846 より
※札幌急行鉄道の申請は、認可が降りた翌年、1960年(昭和35年)6月23日に取り下げられたとのこと。
仮にこの鉄道が建設されていたとしたら、江別の北側はどのように発展していたのでしょうか?
大通りまでのアクセスの良さで沿線は賑わったかもしれない?
札幌に大きな私鉄網ができたかもしれない?
はたしてどんな状況となっていたのか…。想像力を掻き立てられます。
新線計画から60年後、東急の列車が北海道の地を走る
東急の鉄道として計画された「札幌急行鉄道」から60余年。
2020年5月~8月の約1ヶ月、東急の列車である「ザ・ロイヤルエクスプレス」が北海道の地を疾走することになります。
私鉄路線としてではありませんが、別の形で東急の夢が叶う瞬間とも言えるかもしれません。
当時、江別の地に新路線をと夢見た人たちにはどのように映るでしょうか。
豪華列車・観光列車が北海道を走ることで、より多くの人に北海道の魅力を楽しんでもらえるといいですね。
参考文献:『えべつ昭和史 1926-1993』平成7年3月31日発行