北海道江別市角山に地域名として今に残る「世田谷」。世田ヶ谷地区の入口には北海道中央バスのバス停「世田ケ谷」の名称が残っています。
この地域はかつて戦災にあった東京都世田谷区の住民が集団移住し開拓した場所なので、この名が付いているとのことです。
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もくじ
北海道江別市に「ケ」が残る「世田ヶ谷」、東京都世田谷区から入植した地域
何度か見かけたことがある「東京都世田ケ谷区」。現在の世田谷区の一部の地名はかつて「世田ケ谷」と書かれていました。世田谷区からの入植者がいた北海道江別市にも「世田ケ谷」の地名が残っているそうです。https://t.co/CZDlpaFjEu
— 毎日新聞 校閲センター (@mainichi_kotoba) July 4, 2020
北海道江別市角山に残る地域名「世田ヶ谷」のバス停留所名には、名称に「ケ」が付いています。
対して東京都世田谷区には「ケ」が付きません。
かつては東京でも「世田ケ谷」という地名が残っていた所もあったそうですが、現在は住所や駅名に「ケ」は付いていません。
「ケ」が付いたかつての名残が北の大地で残っていた、というのは何とも面白いですね。
ちなみに現在は江別市でも「ケ」を抜いた「世田谷」を使用するのが一般的になっているようです。
北海道江別市 世田谷地区の様子
北海道江別市角山の国道275号線沿いにある「世田ヶ谷地区」入口付近の様子。江別市街地からはかなり離れた場所にあります。
片側2車線の道路はひっきりなしに車が走っていますが、周囲を農地に囲まれた、いわゆる「何もない」風景が広がっています。
もちろん何もないわけではなく、道路沿いには中古車販売店や工場が点在し、世田ヶ谷地区に入ると、「太田ファーム」という有名な卵直売所があります。
住宅は数えるほどしかありません。そういう意味ではたいへん長閑で風光明媚とも言えます。
世田ヶ谷バス停
「北海道中央バス」のバス停「世田ヶ谷停留所」。
待合所は扉のない吹きさらし状態で、冬季間にバスを待つには相当キツそうです。
2016年当時のバス時刻表。おおむね1時間に1本ほどで、時間帯によっては3時間ほど来ないところもあります。
このバスは、札幌バスターミナルから江別駅を結ぶ「系統90 札江線」のバス路線。
2020年現在はもう少し減便されているようです。
参考:中央バス2020年夏時刻表(PDF)
角山・世田谷部落70周年「戦災から逃れて もうひとつの世田ヶ谷」
江別市が発行する「広報えべつ」2015年(平成27年)9月号に『角山・世田谷部落70周年 巻頭特集「戦災から逃れて もうひとつの世田谷」』という特集記事があり、世田谷地区の歴史を詳しく知ることができます。
参考:広報えべつ2015年9月号/江別市公式サイト
ちなみにこちらの広報えべつの記事では「世田ヶ谷」ではなく「世田谷」という表記で統一されています。
世田谷部落の歴史
空襲などの戦災にあった都市の被災者救援のため、政府は昭和20年5月「北海道疎開者戦力化実施要綱」を策定し、5万戸、20万人の集団移住計画を決定、新聞などを通じて移住者を募りました。
(中略)
北海道庁内に「北海道集団帰農者受入本部」が設けられ、世田谷区民を含む第1陣が出発したのが昭和20年7月6日。この集団帰農者が「拓北農兵隊」と呼ばれました。
広報えべつ2015年9月号/江別市公式サイト
東京からの第1陣約200世帯は、以下の隊に分かれて道内各地に入植したとのこと。
- 世田谷区→江別町(現・江別市)
- 杉並区→手稲村(現・札幌市手稲区)
- 足立区→琴似町(現・札幌市西区)
- 目黒区→豊平町(現・札幌市豊平区)
- 板橋区→札幌村(現・札幌市)
- 大森区→白石村(現・札幌市白石区)
- 品川区→角田村(現・栗山町)
拓北農兵隊に応募した世田谷区民は、教師、画家、俳優、鉄工業、菓子職人など農業とは無縁の人たちでした。
昭和20年7月6日午後4時25分、東京上野駅を臨時列車は、北を目指し出発しました。出発式には当時警視総監だった町村金吾氏(後の北海道知事)が見送りに来ていました。列車が野幌駅に到着したのは7月9日の早朝でした。野幌駅に着いた一団は、駅前の天徳寺での受入式で受け入れ農家と顔合わせをし、それぞれの農家に散りました。受け入れ先は機農部落14戸、西角山部落4戸、対雁部落8戸(計26戸)で、しばらくは分宿の日々でした。
当時入植した世田谷の人々を待ち構えていたのは、寒き厳しい未墾の地。入植地は泥炭地が広がる原野。割り当ての土地に通い、住宅作りが初めの仕事となりました。材料は原始林から切り出して運び、屋根と壁は周辺にあった茅や葦を刈り取り材料にしました。とりあえず雨露をしのぐ体裁のものでした。それでも年内に入居したのは10世帯でした。また農作業は、原野特有の泥炭地との闘いでした。溝を掘り、水を抜き、客土(土砂の運搬)などの土地改良が地区全体で毎日続きました。厳しい冬の生活などの苦難に耐え、必死に切り開き、やっていける目途がつくまで10年かかりました。
広報えべつ2015年9月号/江別市公式サイト
慣れない土地で未墾の地を切り開いていくという想像を絶する苦労があったようです。
そんな江別市にある世田谷地区ですが、現在は離農者が増え、住居も数えるほどしかないという状況です。