江別の史跡『江別古墳群』を見に行ってきました。場所は5丁目通りと江別インター線との交差点角地(住所:北海道江別市元江別858番4)。
この江別古墳群は、日本で最も北に位置する古墳であり、また道内で現存する唯一の古墳でもあります。
訪問日は2021年(令和3年)4月上旬。ようやく雪解けが終わりそうな頃です。
こういった史跡や廃線跡等の観察は雪解け直後の春か、雪が降る直前の秋が最も適しています。夏になってしまうと草に埋もれて史跡が隠れて見えなくなってしまうからです。
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もくじ
江別古墳群を見に行ってみた!日本最北端&道内唯一現存の古墳の現在2021[北海道江別市元江別]
こちらが江別古墳群への入り口となる階段。
歴史的に貴重な古墳ではありますが、出入口はいたって地味で、どことなくぞんざいな雰囲気すらあります。
江別に住んでいる方でもここに古墳があることを知っている人はかなり少ないのではないかとも思います。
車でこの交差点に差し掛かっても、まず古墳があることには気が付きません。
江別古墳群 説明板
出入口に立っている『江別古墳群』の説明板。全文は以下の通りです。
国指定 史跡「江別古墳群」平成十年九月十一日 指定
古墳文化の終末西暦七世紀頃、東北地方北部を中心に「群集墳」と呼ばれる古墳群が造られるようになります。この群集墳は、大和政権下にあった東北南部との接触交流により、東北北部に成立した独自の墓制と考えられます。群集墳は、九世紀頃まで受継がれ、北海道にも波及しました。
北海道の群集墳は、石狩川支流域の三ヵ所(江別二・恵庭一)で確認されていますが、現存するのはこの江別古墳群だけで、八世紀後半から九世紀にかけて造られたと考えられています。
江別古墳群は、昭和六年に後藤寿一によって発見され、その後、昭和五十五年の調査で古墳二十一基を確認、現在、十八基が旧豊平川を見下す丘陵上に残っています。
古墳は、直径三~十メートル、環状または馬蹄形状の周溝がめぐり、中央部に周溝から掘り上げた高さ一メートルの盛土で墳丘を築いています。さらに墳丘中央を掘り下げ木棺をじかに埋葬したものと思われ、蕨手刀(わらびてとう)、毛抜形刀(けぬきがたとう)、鉄製刀子(とうす)、耳環(じかん)、勾玉(まがたま)など本州からの輸入品を副葬しています。このことから、古墳の被葬者は当時の律令体制下にあった地域と深く関わった人々と考えられます。
江別古墳群は、群集墳の最も北に位置し、北海道に現存する唯一の古墳群として、また、当時の北海道と律令支配のおよんだ地域との交流を考える上で極めて重要な遺跡として、国の史跡に指定されています。
平成十年十一月 江別教育委員会
駐車場について
ちなみに江別古墳群付近には駐車場がありません。『江別古墳群』説明板の横には駐車場案内図が立っていました。
案内板では5丁目通りを更に北に進み世田豊平川を超えた先にある『リサイクルバンク』の駐車場が利用できるそうです。
いざ、江別古墳群へ
数段の階段を登っていくと、緩やかな坂道が続いています。
なにげに歩道はアスファルト敷になっているので歩きやすいです。
4月上旬ですが、左右に熊笹が生い茂っていました。夏場はこの道を通るのも苦労しそうな雰囲気です。
道を上がるとすぐ、ちょっとした広場に出ました。ここが江別古墳群…?
日本最北端・道内唯一の古墳『江別古墳群』の現在
見たところただの原っぱに見えますが、よく見ると数箇所で土が盛り上がっているのが分かります。
写真ではちょっと分かりにくいですが、円形の土盛が並んでいます。
奥に行くほど古墳の形が分かりやすいです。
一番奥の円墳は分かりやすい状態でした。
本州の古墳は数百メートルもある巨大なものが多いので、それを想像するとかなり地味です。
説明板では古墳の大きさは直径3~10メートルとありましたが、それよりも小さな印象を受けます。
風雨によって侵食されていっているのかもしれません。
一番奥から東方向(出入口方向)を見た写真。
この写真だと地面が波打つように円墳が並んでいる様がお分かりいただけるかと思います。
これが7世紀頃に築かれた遺構だと思うとロマンを感じますね。
史跡 江別古墳群の標柱
古墳群のかたわらには、『史跡 江別古墳群』と書かれた標柱が立っていました。
平成10年(1998年)11月30日建設とあります。
標柱の横には国指定史跡となった「平成10年9月11日」の日付も書かれています。
江別古墳群について
江別古墳群は昭和6年(1931年)夏に、当時札幌市の山鼻小学校の教員だった後藤寿一によって発見されました。
そのため、この古墳群は『後藤遺跡』とも呼ばれています。
1980年の再調査では21基の古墳が確認されたとのことですが、その後の工事によって3基が破壊されたとのこと(上記写真の左側3基が消滅)。
江別古墳群はいわゆる古墳時代(3世紀~6世紀)のものではなく、7世紀~9世紀に築かれたものと考えられています。
北海道で発見された末期古墳は、江別の他に「札幌市K39遺跡 医学部陽子線研究施設地点(北海道大学構内)」、「札幌市K39遺跡 北区北7条西6丁目地点」、「恵庭市 西島松5遺跡」、「恵庭市 柏木東遺跡[茂漁(もいざり)古墳群]」、「千歳市 ユカンボシC15遺跡」、「千歳市 ユカンボシC1遺跡」などが発見されていますが、現存するのは江別古墳群のみだそうです。
江別市には古墳群が2ヵ所、「町村農場」にも古墳があった?
江別市には元江別の古墳群の他に、町村農場(現・江別市いずみ野の旧町村農場[町村農場1遺跡])にも古墳があったそうです。
昭和六(一九三一)年夏に、当時札幌市の山鼻小学校の教員だった後藤寿一が、札幌郡江別町字兵村(現江別市元江別・後藤遺跡)で一六基、昭和七年夏から翌年にかけて、後藤寿一と恵庭小学校教員の曽根原武保が千歳郡恵庭村(現恵庭市・柏木東遺跡)で一五基、七年秋に河野広道が江別町字対雁町町村農場(現江別市いずみ野・町村農場遺跡)で二基を発見・発掘している。その後、五五年になって江別市教育委員会が江別インター線道路の建設に伴って後藤遺跡を調査し、二一基を再発見している。
引用元:新 江別市史 第一編 先史時代 第三章 擦文時代 第一節 江別古墳群と擦文文化 P.39-P.40
「新江別市史」によると、現在の旧町村農場付近で古墳2基を発見したとあります。
町村農場遺跡についての記述は以下のように続きます。
町村農場遺跡は坊主山遺跡の南側に連なる丘陵上に広がる(農場は平成四年に篠津地区へ移転)。河野の報文によれば、発見されたのは二基で、耕作により墳丘部は失われていた。うちX-G号では内径三・一メートル×三メートル・幅は幅八〇センチメートル・深さ三〇センチメートルの周溝が確認され、盛土の上に置かれていたらしい祝部陶器(須恵器)・擦文土器・蕨手刀などが発見された。X-1号では二〇〇×八五センチメートルの長方形で深さ五センチメートルほどの墓壙が確認され、副葬品として細身の直刀二点、刀子一点、鉄輪一点が出土した。ただし、詳しい位置については不明である(河野広道「北海道の古墳様墳墓について」『考古学雑誌』二四ー二」)。
引用元:新 江別市史 第一編 先史時代 第三章 擦文時代 第一節 江別古墳群と擦文文化 P.41
現在残っていないどころか場所も定かではないというのは悲しい限りです。
もしかしたら江別市の各地に古墳が点在していたのかもしれませんね。
というわけで、江別古墳群の訪問記をお伝えしました。
ちなみに江別古墳群の資料に関しては、「江別市郷土資料館(江別市緑町西1丁目38)」で展示されているとのことです。
国指定史跡『江別古墳群』の場所アクセス地図
住所:〒067-0032 江別市元江別858-4地先河川敷地