
※画像はイメージです
昔の江別では、鉄道の貨車を人が押して運んでいた時代があった――。
にわかには信じがたい話ですが、これは本当です。
明治時代の江別には、江別駅と石狩川・千歳川沿いの船着き場を結ぶ「人力軌道」と呼ばれる鉄道路線が存在していました。
現在のJR函館本線とは異なり、機関車を使わず、人の力で貨車を動かしていたという珍しい鉄道です。
今回は、江別市の郷土資料『新江別市史』や当時の路線図などをもとに、かつて江別に存在した人力軌道の歴史を紹介します。
スポンサーリンク
もくじ
江別駅から貨車を人が押していたって本当?
現在の江別駅周辺からは想像しにくい光景ですが、かつて江別には、人が鉄道の貨車を押して運ぶ「人力軌道」が存在していました。
一般に、人が車両を押して走らせる鉄道は「人車鉄道」「人車軌道」などと呼ばれます。
全国各地に存在した人車鉄道の中には、乗客を乗せた小さな車両を人が押すものもありました。
しかし、江別の人力軌道は少し事情が異なります。
その主な役割は、川を船で運ばれてきた農産物や木材などを、鉄道の貨車に積んで江別駅へ運ぶことでした。
鉄道史関係の資料では、江別の人力軌道について、当時の幹線鉄道に乗り入れる貨車そのものを人が押して移動させていたと説明されています。
つまり、観光用の小さな客車を押すような鉄道ではなく、貨物輸送のために設けられた実用的な鉄道路線だったのです。
※江別市の郷土資料『新江別市史』では「人力軌道」と表記されています。一般的な鉄道史では「人車軌道」「人車鉄道」などの名称も用いられますが、本記事では江別市の資料に合わせて「人力軌道」と表記します。
なぜ江別に人力軌道が必要だったのか?
人力軌道が造られた背景には、明治時代の江別が北海道内陸部の重要な物流拠点だったことが関係しています。
現在は自動車や鉄道による輸送が中心ですが、明治時代には石狩川や千歳川を利用した舟運が大きな役割を担っていました。
当時の江別には、石狩川上流域や千歳川流域から農産物、雑穀、木材などが船で運び込まれていました。
一方、1882年(明治15年)には幌内鉄道の江別駅が開業。鉄道を利用して物資を札幌や小樽方面へ運べるようになります。
しかし、川から荷揚げされた大量の荷物を江別駅まで運ぶには、相応の手間と労力が必要でした。
そこで、船着き場と江別駅を線路で直接結び、荷物を効率よく運搬するために設けられたのが人力軌道です。
北海道開発局が『新江別市史』を参考資料として公開している「江別港と人力軌道」の解説でも、共同物揚場から物資を直接鉄道へ運ぶために軌道が敷かれ、従来の運搬の手間が大幅に省かれたことが紹介されています。
当時の江別は、川を利用した水運と鉄道輸送が交わる場所だったのです。
人力軌道には「江別川線」と「石狩川線」の2路線があった
江別の人力軌道には、主に2つの路線が存在していました。
「江別川線」と「石狩川線」です。
『新江別市史』をもとにした資料では、1902年(明治35年)に江別川線、1904年(明治37年)に石狩川線が敷設されたとされています。
江別川線
江別川線は、江別駅から当時の江別川沿いの物揚場へと延びていた路線です。
江別川とは、現在の千歳川の下流部にあたる川の旧称です。
江別駅の北側から川岸へ延び、船で運ばれてきた物資を鉄道へ積み替える役割を担っていました。
『新江別市史』を出典とする路線図には、江別川線の延長が266メートルと記されています。
路線図を見ると、途中で分岐しながら川沿いの荷役施設につながっていたことが分かります。
石狩川線
もう一方の石狩川線は、千歳川と石狩川に挟まれた「三角地」と呼ばれる地域に敷設されていました。
『新江別市史』を出典とする路線図では、延長379.5メートルと記されています。
こちらも石狩川沿いの物揚場と鉄道を結ぶ貨物輸送用の路線でした。
路線図には共同荷揚場のほか、工場などの名称も描かれており、現在とは大きく異なる当時の川沿いの様子がうかがえます。
なお、1902年・1904年は市史系資料に記載された敷設年です。鉄道史関係の資料には、正式な営業開始時期を江別川線1905年、石狩川線1913年とする記録もあり、資料によって年代の扱いに違いがあります。
当時の路線図から分かる江別の街並み
今回紹介する路線図は、2017年に江別市郷土資料館で開催された「写真で見るえべつの鉄道」ロビー展で展示されていたものです。

「新江別市史」に掲載されている人力軌道の配線図。江別川線と石狩川線の位置関係が分かります。
江別駅から北へ延びる江別川線、石狩川沿いを東西に延びる石狩川線のほか、「共同荷揚場」「藤原木工場」「三井物産合名会社 江別木材工場」などの名称が確認できます。
現在の江別駅周辺からは想像しにくいものの、当時は川沿いに木材工場や荷揚げ施設が集まり、船と鉄道を利用した物流が盛んに行われていました。
また、江別川線には途中で分岐する線路も描かれています。
こうした施設や線路の配置からも、人力軌道が江別港の物流を支えるための設備だったことが読み取れます。
人力軌道はいつ廃止された?
明治時代に整備された江別の人力軌道ですが、その後、舟運を取り巻く環境の変化などとともに役割を終えていきました。
『新江別市史』を出典とする路線図には、江別川線について一部が1938年(昭和13年)4月に廃止され、残る区間も1945年(昭和20年)3月に廃止されたことが記されています。
一方、石狩川線については、1922年(大正11年)に石狩川治水事務所江別の機械工場へ譲渡された旨の記載があります。
鉄道史関係の資料では、石狩川線の廃止を1922年、江別町営軌道全体の休止を1931年、廃止を1945年とするものもあります。
敷設から廃止までの経緯には、路線の一部廃止や設備の譲渡なども関係しており、単純に全線が同時に廃止されたわけではなかったようです。
また、1927年(昭和2年)には石狩川の定期航路が休航するなど、かつて盛んだった舟運も次第に衰退していきました。
河川と鉄道の間で大量の物資を運ぶために造られた人力軌道は、こうした輸送環境の変化の中で、その役割を終えることになったと考えられます。
現在、人力軌道の線路跡はどうなっている?江別川線・廃線跡
人力軌道が存在したのは、現在の江別駅北側から千歳川・石狩川にかけての地域です。
かつて江別港として栄えた千歳川沿いには、人力軌道の江別川線が敷かれていました。

2021年撮影の千歳川堤防・江別港跡付近(江別川線廃線跡)
上の写真は、2021年に撮影した千歳川堤防・江別港跡付近の様子です。
この堤防沿いには、かつて人力軌道の線路があったとされています。
撮影当時、すでに線路や枕木などの痕跡は全く残っていませんでしたが、堤防沿いには古いレンガ造りの倉庫が残っており、かつて川を利用した物流が盛んだった時代の雰囲気を感じることができました。
写真右側に写っている大きなレンガ造りの建物は「筒井1号倉庫」です。
江別港の歴史を伝える建築物の一つでしたが、この写真が撮影された数か月後の2021年11月に撤去されました。
えべナビ!でも当時、筒井1号倉庫の解体工事について現地の様子を紹介しています。
さらに2026年現在では、千歳川沿いの護岸工事や周辺の整備、旧岡田倉庫の移築などによって景観が大きく変化しています。
かつての倉庫群が並んでいた江別港の風景は次第に失われ、人力軌道が走っていた時代の様子を現地で想像することは、以前にも増して難しくなっています。
それでも、当時の路線図や古い写真を現在の街並みと見比べることで、この場所がかつて江別の重要な物流拠点だったことを知ることができます。
石狩川線・廃線跡(2021年撮影)

2021年撮影の石狩川線・廃線跡
千歳川と石狩川に挟まれた「三角地」と呼ばれる地域の様子。
写真左が千歳川、右手が石狩川で、奥に見える王子エフテックス江別工場付近で川が合流しています。
かつてここに線路や工場があったとは思えないほど何もない風景となっています。
このエリアの南側には「江別河川防災ステーション」があり、舟運の歴史などが学べる資料館があります。
江別は船と鉄道が交わる交通の要衝だった
今ではすっかり姿を消してしまった江別の人力軌道。
江別駅から川岸まで、わずか数百メートルの短い鉄道路線でしたが、その背景には、北海道の開拓とともに発展した江別の物流の歴史がありました。
船で運ばれてきた農産物や木材を、人が押す貨車で江別駅へ運び、そこから鉄道で各地へ送り出す。
江別の人力軌道は、石狩川・千歳川の舟運が盛んだった時代を象徴する交通施設の一つだったといえそうです。
現在の江別駅周辺や千歳川沿いを歩くとき、かつてこの場所に人が貨車を押す線路が延びていたことを思い浮かべてみると、いつもの街並みも少し違って見えるかもしれません。